抽象的な、女の子の日記 4
せいせい、あのね。
ありさんたちは、顔も体も似た者ばかり。わたしには、全く見分けがつきません。
人間の世界は、顔も背丈も違う人ばかり。個性的で、比較の嵐にのまれてしまいがちです。
ひとりになった時が、重い鎧がとれる時間。
誰にも何も言われずにすむ、ホッとする時間。
せんせい、わたしらしさって一体どういう事なのでしょうか?
目には見えない傷口がうずきます。
ー傷ついているけど、傷ついてないふりをする日々にもなれてきました。ー
せんせいが居なくなって数ヶ月が経ちます。通う学校では、ますます “かたにはめたがり” だしました。
窮屈な日常。
また、逃げたしてしまいたい欲求との葛藤です。
学校は、簡単に言います。「何か困ったら、友達に相談や愚痴りな」ってね。
・・・友達・・・。
イヤでも現実を突きつけられたようで、鈍い痛みが走りました。
そういえば、だいぶ昔の話。せんせいと出逢う、ずっとずっと以前のことだけど、
あの子も、きっとこの鈍い痛みに似たような気持ちになってたんだろうなっと想像していました。
当時、よく火がついたように泣く女の子がクラスにいました。怒りの果てに泣くこともあったりで、密かに「泣き虫」とあだ名をつけられて厄介がられていました。
そんな子が必ず泣いて目立つ場面がありました。それは、
担任が何か始める時に唐突に放つ「じゃ、○人くらいでグループ作って!作ったらその場で座る!!」のお決まりセリフの時でした。
わたしは幸い、一緒にやろうと誘ってくれる子が周りにいたことで、流れに身を任せていれば苦労もなく座れていました。(良いのか悪のかは別としてですが。)
ただその「泣き虫」と呼ばれていた女の子は、グループの友達が見つからずに、目を真っ赤にして泣いていました。
座れずに、立ったまま、いつも必ずです。
また泣いてるよ・余り物だねとヒソヒソ声が聞こえてくる中で、座れないのが悪い、友達が作れてないのが悪い、そんな空気が漂っていました。
今振り返れば、あれはちょっとした「いじめ」だったんじゃないかなと思います。わたしも加害者のひとり。泣き虫と呼ばれていた彼女にとっては、ただただ現実を突き付けられる残酷な場面だったのかもしれません。
友達を作れないことは、本当に悪いことなのでしょうか。嫌われないように、常に生きなきゃいけないのでしょうか。
友達って何なの?!
今ならはっきり言えます。
そんなの、わたしはいない。見ればわかるじゃん。あなたもそう。分かってて、それを突き付けたいだけでしょう?
ってね。